球界の大物・星野仙一が残した歴史

「星野仙一さんのことを詳しく知りたい」
「星野さんの現役時代の成績を知りたい」
「星野さんの死因って何だったのか?」

日本は世界のなかでも、野球が非常に高い人気を集めているスポーツです。
1902年にアメリカから伝わったのが最初で、その当時は計4つの球団しかありませんでした。
それから長い歴史の中で10個と増えていき、いまではセリーグ・パリーグを入れて26の球団で構成をされるに至りました。
若い方はもちろんのこと、年配の方にも愛されているスポーツで、国技といっても過言ではないでしょう。
毎年春から秋にかけて野球シーズンとなり、連日テレビ中継して眺めることができます。
アマチュア球団もありますが、プロ球団の活躍は目覚ましいものです。
過去に球界で名前を馳せた方は大勢おり、そのなかでも昭和・平成と大活躍をなさったのが星野仙一です。
ここではこの星野さんの軌跡について、詳しく見ていくことにしましょう。

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星野仙一とは

まず星野仙一とはどのような方なのかというと、元阪神タイガース・日本ハムで監督をなさっていた男性です。
2018年に病気でこの世を去られましたが、それまでは生涯・野球の世界で人生を送られていた方になります。
もともとはセリーグの選手で、18歳でドラフト1位の指名を受けてプロ球団に入りました。
島根県松江市出身で、こどもの頃は野球選手ではなく、ラグビー選手になりたいという夢を持たれていたと、生前のインタビューで答えられていたものです。
中学から父親と兄の影響でベースボールをはじめ、すぐに頭角をあらわします。
松江商業高校に進学をした際、1年生でありながら身長が180センチと大柄だったことを受けて、ピッチャーのポジションを与えられました。
そしてレギュラーを獲得して、第15回高校野球に島根代表として出場をしたわけです。
当時の対戦相手は優勝候補として名高い陸前高田高校でしたが、9回裏まで互いに点数を入れることのない接戦で決勝戦を迎えました。
最終12回裏、星野仙一のバッティングがホームランとなって、見事に優勝を果たします。
この影響で13球団からドラフト1位の指名を受け、星野さんは西武ライオンズへの入団を希望するに至りました。

大魔神と呼ばれた理由

プロ選手としては約15年間活躍をされ、計4回の優勝を経験されています。
星野さんと同期である長嶋茂雄・王選手、さらには野村克也は彼のことを「大魔神」と称していました。
なぜこのようなあだ名で呼ばれていたのか、その理由は二刀流の選手だったからに起因をします。
当時の野球界では、バッターはピッチャーにはなれないものという暗黙の常識がありました。
それは体格の問題であり、ピッチャーは細身ということから、バッティング時のパワーにかけるわけです。
しかし、星野仙一はその限りではありませんでした。
身長180センチメートル、体重90キログラムの大柄な男性でありながら、俊敏な動きとハイパワーを持つ筋力で他者を寄せ付けなかったわけです。
これが当時ブームとなった映画の大魔神と瓜二つだということで名づけられました。

阪神タイガースの監督に抜擢

その後昭和62年、星野さんは南海ホークスに在籍をして現役を引退されます。
しばらく静養をすると告げられ、中国の北京に住まいを移されました。
さほど表舞台で彼の名前を見聞きすることはありませんでしたが、1996年にスポーツ紙の一面をにぎわす決断をされます。
それは、当時プロ球団の最下位の常連であった阪神タイガースの監督に抜擢をされたからです。
約20年近くも野球から遠ざかっていた方の帰還で、ファンの間ではしばらく熱気がおさまることはありませんでした。
なぜ星野さんは阪神タイガースの監督を引き受けられたのでしょうか。
その理由は生前に新聞で明かされています。
出来の悪い子ほどかわいいものだ、と星野さんは語られており、万年最下位の球団に愛情を持っていたわけです。
そして自身が指揮を執り、優勝を目指せる強さを与えようとされました。
その熱心な指導の甲斐もあって、阪神は2002年に30年ぶりのセリーグ優勝を果たします。

別の出来の悪い子を探す旅に出た星野仙一

当時活躍をした選手は新庄剛で、現在は日本ハムファイターズで監督をなさっている方です。
星野仙一はこの優勝を経験すると、すぐに阪神の監督を辞任されました。
この理由も後日談で語られていて、また別の出来の悪い子を探す旅にでたということでした。
その旅は日本ハムにいきつくのでしたが、星野さんが監督をなさった6年間のうち、一度も優勝をする結果には至りません。
成績が振るわなかった責任を取って辞任をされ、翌年にガンでこの世を去られています。
星野仙一は球団のなかでも素晴らしい才能を有した方で、現在は島根県に記念館も存在します。
そしてプロ野球界で殿堂入りも果たされ、若いファンの間でも伝説の英雄と称されているほどです。
彼の活躍を知るには、記念館に行くのがいいでしょう。

まとめ

高校球児であったころのユニフォームやバッドも展示をされており、それらを直接目にすることが可能です。
今後も彼をこえる大物は存在しないでしょうが、それだけ偉大な人物ということです。

最終更新日 2025年7月5日 by kyubei